ウーブログ

Mr.Childrenが大好きな一教師のブログです。

21「『名もなきフェイク』前編」の巻

風の匂いもいつしか冬のものになってまいりました。

 

僕は、ふと気づいたことがあります。そう、それは「フェイクは名もなき詩に通ず」ということです。

あの、ミスチルのダーク曲「フェイク」が、ミスチルの大人気名曲「名もなき詩」に通ずるとは一体?

着眼点はずばり「あるがまま」でしょう。

今回も「センターオブユニバース」「くるみ」「旅立ちの唄」に引き続き、「ミスチル療法」についての記事です。

 

 

人はなぜ心を病むのか。その原因や経緯は人それぞれ、多種多様でしょう。

しかし多数の人に共通するのは「負のスパイラル」に陥っていること、と言えるのではないでしょうか。

マイナス思考、心に余裕が持てない、考えすぎる…

そんな状態が続くことは、辛いことですね。

では、そんな状態を打破するにはどうすると良いのでしょうか?答えは意外とシンプルで、

プラス思考、心を休める、考えない…

などでしょう。

そしてそれは他でもない、「認知行動療法」であり「マインドフルネス」であり「禅」なのです。

それでは、Mr.Childrenの「名もなき詩」と「フェイク」が、それにどのように関連するのかということを考えていきましょう。

 

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名もなき詩とは、Mr.Childrenの中でも知名度・人気度共にトップクラスの超名曲です。

https://youtu.be/gj5Nu6feFTQ

そのサビの歌詞は、こう。

 

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた
自分らしさの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ

 

あぁ、なんという歌詞。多くの人が共感する歌詞ではないでしょうか。

Q:この歌詞のような思いを抱いて生きている人は、どのくらいいるのでしょうね。

A:名もなき詩では、終盤で「誰だってそう」とうたっています。

誰しもに当てはまる歌詞だからこそ、多くの人の共感を呼ぶのでしょう。

 

ところで「あるがままの心」とは、なんでしょう。

認知行動療法、マインドフルネス等では、「あるがままを受け入れる」ことを大切にしています。禅も同様です。私は、名もなき詩の「あるがままの心」を、「あるがままを受け入れる心」と同義のものとして解釈しています。つまり、名もなき詩のサビは、あるがままを受け入れて生きたいけれど、それがなかなかできないということ、そしてそれを誰かのせいにして過ごしているということを嘆いているのだと思います。

そして、あるがままを受け入れることが難しいのは、「自分らしさの檻」というものを知らぬ間に築いていて、そのなかでもがいているからだといいます(厳密には、それが原因・理由とは言っていませんが)。

 

ここで出ました。"あるがままを受け入れる"ことを考えるためのキーワード。それが「自分らしさの檻」です。

 

あるがままを受け入れることを阻害する自分らしさの檻とは何か。それは「心のクセ」「思考のクセ」「認知の歪み」などと呼ばれるものにあたるのではないかと思います。

禅、認知行動療法などでは、この「認知の歪み」を修正しながら、物事に対して価値判断を行わず、あるがままに受け入れる練習をします。

 

例えば。

ふと頭の中に、"先日の嫌な出来事"が思い浮かぶ。

しかも、ここのところ、このように思い出してしまうことがよくあるとします。

そうすると「またこれが始まった。嫌なことなんか思い出したくないのにな。こんなことだからいつまでも気分が優れないんだよ。このマイナス思考が自分の悪いところだよな。だめだなあ。」なんてことを考えてしまい、またまた気分が落ち込む、という負のスパイラルにはまってしまいがちです。

これは、あるがままを受け入れているのではなく「頭に考えが浮かんだら、その考えに価値判断を下している」状態です。

では、ふと頭の中に、先日の嫌な出来事が思い浮かんだときに、あるがままを受け入れることができるというのは、どういうことでしょうか。

ずばり、「あ、今この間のことが思い浮かんだ」と、これだけでしょう。「頭から消えろ、消えろ」と思うことは、結局その考えにとらわれていることであり、負のスパイラルにつながります。そうではなく、ただ見つめるという感覚です。

ここで、嫌な考えを葉っぱに例えます。川の流れに乗って流れてきた葉っぱを、ただ見つめて、流れていくのを見つめて、川下の方へ流れていって見えなくなるまで見つめて、見えなくなって、はいおしまい。そんな感じです。つまりその葉っぱに対して価値判断を下すのではなく、ただあるがままを見つめるのです。このような練習をすることが、あるがままを受け入れる心で生きるために役に立ちます。

 

さて、「名もなき詩」からここまで話しましたが、このような話のどこに「フェイク」が関係してくるのでしょうか。

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「フェイク」とは、2007年に発売されたシングル曲です。

https://youtu.be/n7H4p0ArZUU

歌詞はというと、

 

体中に染みついている嘘を信じていく

 

この手が掴んだものは またしてもフェイク

 

世界中にすり込まれている嘘を信じていく
すべてはフェイク
それすら…

 

などのように、ややダークなものになっています。

 

皆さんはこの歌詞についてどのように感じますか?

僕は、10年以上聴いてきましたが、先日ふと考えたのです。

「この世の中に絶対的な真実はあるのだろうか」と。

物事は全て自分の「心のクセ」というフィルターを通して認知されるのだとすれば、人によってそれぞれ認知は異なるわけで、概念としての「1つの真実」など無いのではなかろうか、と。

あるとすれば、それは「ここに石がある」「雨が降っている」などのような、森羅万象の出来事(事象)のように、人によって捉え方に差の出る余地もない事実だけなのではなかろうか、と。

つまり、ある物事について、それが人が認知した内容である以上、多かれ少なかれ「解釈の付着したまがいもの」であり、「まるっきり丸裸のあるがままの状態」ではないと思うのです。

 

「すべてはフェイク」「体中に染みついている嘘」というのは、実は自分がこれまで生きてきた中で「心のクセ」というフィルターを通して覚えてきた物事やその「捉え方」自体を指しているのであり、それらが自分の認知様式を形作る「スキーマ」となり、「自分らしさの檻」が出来上がるのだと言えるでしょう。

※「スキーマ」については、いつかブログで触れたいと思います。気になる人はググってみてください。

 

今回はここまでにしておきたいと思います。

次回は後編として、それではどのようにして「自分らしさの檻」の呪縛から解き放たれようか、という内容で進めていきたいと思います。

 

↓後編はこちら

https://kyousikitibee.hatenablog.com/entry/2021/01/10/111515