ウーブログ

Mr.Childrenが大好きな一教師のブログです。

23「終わりなき皮膚呼吸」の巻

なんのためにうまれて なにをして生きるのか

こたえられないなんて そんなのはいやだ

 

のっけからMr.Childrenではなくアンパンマンで始めてしまった。

アンパンマンは深い。これは誰も異論はないだろう。なぜならそれは人の永遠のテーマであろうからだ。

 

しかしなぜ「終わりなき皮膚呼吸」というタイトルのブログの冒頭をアンパンマンが飾ってしまうのか?

それは、Mr.Childrenの「終わりなき旅」も「皮膚呼吸」も、アンパンマンに通じる人生のテーマを感じるからだ。

 

この2曲からは共通のテーマ、すなわち

「この命を通して何を為すか」だったり、

「この命を何者たらしめようか」だったり、

「この命でどう生きてきたか」だったりということを、訴えとして感じるからだ。

 

詳しく語るために、まずは概要にふれておこう。

 

Mr.Children

1992年メジャーデビュー。1990年代中頃、発表する作品が次々にミリオンヒットを記録し、社会現象を巻き起こした。デビューから約30年を経た令和でも、CDを発売すれば週間チャート1位を獲るスーパーバンド。メンバーは現在51歳。

 

「終わりなき旅」

Mr.Childrenが多忙を極めた末活動休止をしたのが1997年。そして1999年、このシングルの発売とともに本格的に活動を再開する。どんな時も自分らしく生きよう、よりよく生きるために前進しよう、という内容の歌詞に勇気づけられる人は多く、世界的アスリートなどからも多く支持を得る、自身の代表曲の1つ。Mr.Childrenのシングルでは、現時点で最後のミリオンヒット作。

 

「皮膚呼吸」

2018年発売のアルバム「重力と呼吸」の最後に収録されているアルバム曲。タイアップ等は一切無いが、ブログ主からは「終わりなき旅の現代版」と評されるほどの素晴らしい曲。その心は…

 

 

皮膚呼吸の歌詞は、こう始まる。

 

 

と、ある日
顳(こめかみ)の奥から声がして
「それで満足ですか?」って
尋ねてきた

冗談だろう!?
もう試さないでよ
自分探しに夢中でいられるような
子供じゃない

 

 

 

これが、モンスターバンドとして25年活動してきたMr.Children桜井和寿から生まれた言葉だ。

そして、このこめかみからの声に対し、このように展開される。

 

 

でも
皮膚呼吸して 無我夢中で体中に取り入れた
微かな酸素が 今の僕を作ってる そう信じたい
I'm only dreamin', but I'm only believin'
I can't stop dreamin'
このまま
切なさに息が詰まったときが
それを試すとき

 

さらに、

苦しみに息が詰まったときも
また姿 変えながら
そう今日も
自分を試すとき

 

これは、終わりなき旅が円熟味を帯びたものだと捉えることができよう。

 

重力と呼吸発売以来、アルバムで1番のお気に入りの曲だ。

これまでものすごい実績を残してきて、こんなに最強なポジションにいて、この上まだ己を高めようというのか。いったいいつまで…

その姿勢に、強く心を打たれるのだ。

終わりなき旅は、「本当に」終わりなき旅なのだと思い知らされる。

 

ところで先日。

もとい、と、ある日。

私のこめかみの奥から、突然ふたつの言葉がやってきた。

そのふたつの言葉とは、

「積み重ね」と「踏まえる」。

いったい何故なのか、よくわからない。

しかし、確かにこのふたつの言葉が浮かんだのだ。

車を運転している最中に。

 

そのことが、いったい何を意味するのか。

この突然の訪れを機に、少し考えた。

 

私は大学を卒業して10年目の小学校教員だ。

教師は、子どもの頃からなりたかった職業だ。

その職業には就けた。でも、それで満足ですか?

…。

なりたい教師にはなれたか?

…。

なりたい自分にはなれたか?

…。

 

私が初めてクラスの担任をしたのは、4月ではなく、6月からだった。

なぜかと言うと、そのクラスの先生が病気休暇をとられ、その代わりに私が担任となったからだ。

私は、そのクラスでまともに授業をすることも、学級集団をまとめることもできなかった。

授業中に教室内でボール遊びをする子たちがいた。

いじめをし、私が間に入って体を張って止めようとしても、殴るのをやめない子もいた。

当然、保護者からはクレームが届いた。

私は自分の無力さに絶望し、毎日お風呂や布団で泣いていた。

「俺なんかが担任じゃ、みんながかわいそうだ。」

自分は教師に向いていないのかと、何度も思った。

 

程なくして、産休明けの別の先生が担任を交代した。

私の初担任は、2ヶ月もなく終了した。それと同時に、学級崩壊というものの恐ろしさを体感した。

 

それからというもの、私は本を読むようになった。

また、さまざまな研修に積極的に参加するようになった。

次第に「勉強熱心」と周りの先生から言われることが増えてきた。

でも、私の気持ちは常に「ビハインド」だった。

 

そして今、大学卒業から10年という年齢になった。

体感としては「ビハインド」のままだ。

学校の仕事は、うまくいかないことが多い。

 

しかし、あの学級崩壊のときと同じかと問えば、それはもちろん違う。

あれからたくさんの勉強もしたし、経験も積んだ。

今では特別支援教育コーディネーターだし、特別支援教育士の資格もあるし、教育センターで研修の講師も務めた。

いったいいつからこのようなポジションに立つようになったのか。

いったいいつから子どもの対応について相談を受けるようになったのか。

それはよくわからない。もっと言えば、それは自分の力としての表れなのか何なのかもわからない。

ただひとつたしかにわかるのは、私はあの日の自分とは違うということだ。

 

私はどんな経験を重ねてきたのか。

そしてそれを踏まえて、どう変わってきたのか。

そしてこれから、どのように変わっていくのか。

自分で歩くことで確かめられることが、確かにある。

 

現代は、インターネット、とりわけSNSの普及により、様々な考えや手法が簡単に閲覧できるし、簡単に発信できる。それにはきっと、良いところも良くないところもあると思う。

良いところは、見聞を広めることができることだと思う。

しかしそのような情報は出どころが不確実であったり、内容の信憑生が保証されていなかったり、表面上の部分しか見えなかったりする。

 

そうすると、そこには、私が10年間続けてきたような「積み重ね」もなければ「踏まえる」べき事実も見えない。

結局は画面の表層を軽く触れているだけになってしまう、という危険性も孕んでいる。

 

勉強することはいいことだ。

しかしながらやはり、自分の血肉となり、明日の自分を創っていくのは、皮膚呼吸して無我夢中で取り入れてきた酸素であったり、息を切らして駆け抜けてきた日々であったり、姿を変えながら自分を試してきた「今」の連続だったりする。

 

自分が目指しているものは何か。

その模索の道の中で見つけてきたものは何か。

その過程で築いてきたものは何か。

それを問い続けながら一歩、また一歩と足を出していくことが、「積み重ねる」ということと「踏まえる」ということなのだろう。

 

皮膚呼吸しながら、終わりなき旅は続く。